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アイドル殺傷事件とベッキーとタモリと指原

アイドル殺傷事件について以前記事を書いたが

いまだに気になっている。

犯人は僕と同じく冴えないやつで

恐らく学生時代からモテてこなかっただろう。

しかも高校中退も同じだし、歳も同じだ。

 

彼が精神的な病気かどうかはわからないが

僕には気持ちがわかってしまう部分がある。

彼にとって被害者のアイドルの存在は

生きていく唯一の希望だったのだろう。

 

その希望が自分に向いてないと分かった時に

彼は世界をぶち壊すことを選んだ。

他殺事件ではあるが自殺だ。

要は彼は自分を殺したかったのだ。

人を殺せば自分の人生も終わる。

こういう事件を起こす犯人が

人を殺すのはそういう理由だ。

 

その為に被害にあった人たちは

たまったもんじゃない。

「一人で死ねよ」というのは至極ごもっともで

人を殺すくらいなら一人で死んでほしい

というのは誰もが思うことだろう。

僕もそう思う。

 

よく殺人を犯した犯人が「誰でもよかった」と口にするが

「誰でもいい」というのは殺す側の自分も誰でもいいのだ。

自分をいつまでも愛せないで他人のせい、社会のせいにする。

そんな自分を更に愛せなくなる。

 

今回の事件の犯人にとって被害者のアイドルが

唯一の希望だったと書いたが

他のアイドルにも殺害予告しているようだし

恐らく「誰でもよかった」のではないか。

ファンという立場を利用すれば

アイドルはとりあえずは優しくしてくれる。

そこにつまらない毎日から脱出する

糸口を見出そうとしたのかもしれない。

 

犯行に及んだ理由の「プレゼントを送り返されたから」

というのも一つのきっかけに過ぎず

誰かに自分の苦しみを分からせたかったが

自分は変われず、虚勢を張ることしか出来なかったのだ。

 

犯人にとって被害者は「希望」だったが

被害者にとって「希望」ではなかった。

自分も誰かにとっての「希望」になりたいのなら

自分が変わるしかない。

今の現状が不満なら世界が変わるか

自分が変わるかしかないのだ。

結局、自分に出来ることは

自分が変わって、世界を変えることしかないのだ。

 

前にも書いたが、犯人に自分を笑う「ユーモア」があれば

ここまでの事件にはならなかったかもしれない。

「情けない自分である」ということを発表できれば

共感してくれる人がいただろう。

 

ただ、彼のブログが

「惨めさの中で世界を笑う」

というタイトルだったので

もしかしたら自分を笑うということを

しようとしていたのかもしれないが

結局彼は怪物になってしまった。

 

人間誰しもが一面的ではなく

暴力性や狂気性を隠しながら生きている。

その怪物をもう一人の自分が

理性やユーモアによってコントロールしようとするのだが

いつの間にか泥沼に足を取られ

気付けば自分が怪物となってまっていることがある。

 

 

この話に関係あるかはわからないが

昨今は多面性が嫌われる社会である。

ベッキーが謝罪会見の後にラインが流出して袋叩きに合ったが

あれは二人だけの会話という前提がある。

「最初から正直に言えよ」という人が結構いたが

「不倫してマス」とでも言ってほしいのだろうか

何に関しても全部が全部言えるわけないだろう。

 

確かに芸能人の謝罪会見というものは

「何を」「誰に」謝っているのかイマイチわからない。

視聴者からしたら、謝られても別に迷惑などかかってないし

ファンでもない人に対しては尚更そう思う。

しかし、それこそが芸能人である。と僕も後々気づいた。

 

誰も頼んでないのに始めるのだから

誰も頼んでないのに謝るのだ。

それは芸能人の傲慢であることに間違いはない。

川谷さんの方は「誰に謝ればいいの?」と言っていたと聞いたが

そういう意味では彼は「芸能人」ではない。

 

僕も歌を作る時も、SNSも出来るだけ正直に

書きたいと思っているが

全部が全部言えるはずなどない。

そんなことをしたら、それこそ怪物になってしまう。

 

さっきは「自分を晒せ」と書いて

次に「多面性を否定するな」と書いているので

矛盾を感じるかもしれない。

つまらないことを言うようだが

要は「バランス」なのだと思う。

 

ベッキーに大して「正直に言えよ」と言う

正直が正義だと思っていて

人の多面性を認められない人達は

逆にいうと、自分が信じたものもは

すべて正直だと思っているということなので

盲信をする。

盲信をする人は盲疑もする。

0か1かだ。

 

 

 

オタク評論家の岡田斗司夫が以前、

 

「この世はすべてヤンキーとオタクに分けられる」

 

ということを言っていた。

これは岡田さんのユーモアで

別に、「人は二つになんて分けられない!」という

真面目な正論のつぶてを、ぶつける必要もないし

面白かったのだ。

 

僕なんかは完全にオタク側だと思うが

オタク側の弱点として自分を客観的に

捉えたりしすぎることによって

いつまでも当事者意識が持てず

言い訳ばかりしているのである。

 

MCバトルのラッパーを見ていると本当にわかりやすい。

ラッパーもほぼこの二種類に分けられる。

技術は大概オタク側の人の方が高いが

ヤンキー側の人の夢中間は突き抜けると強い。

 

そういうこともバランスなので

要はいいとこ取りすればいいだけの話なのだ。

 

しかし、この記事で

 

リサイクルはめんどくさい。便利はめんどくさい。 - 無職が元カノに5万円返す為のブログ!

 

「コンピューターに合わせる社会になっている」と書いたが

0か1かでないと人間は段々と気が済まなくなってきている。

 

この前もミュージックステーション

指原莉乃

 

タモリさんに夢を持つなと言われたので持ってないんですよ」

 

と言っていたが

 

タモリ

”夢を持ち過ぎるあまり日常をないがしろにする”という

男性的な価値観の否定のために

「夢を持つな」と言っているわけで、

つまりは逆説的に言っているのだが

なんだか最近はその言葉だけを切り取り

それに当てはまらなければいけない!

という意識の人が多い気がする。

 

名言聞きたがりで

精神的潔癖とでもいうか。

まぁ指原自体はどういう心持ちで言ったのかはわからないが

タモリがそれを言った当時から

ネット上ではYESかNOかみたいな論争になっていたので

気になっていた。

 

因みにビートたけしも昔に「夢を持つな」と言っていて

それが当時の「持たざる者」たち、

つまりは冴えない奴らの救いになったから

熱狂的に支持され、

救いになるとわかっていたから

発言したのだと思う。

 

ビッグ3で言うと明石家さんま

「夢を見ろ」っていうタイプだと思うし

キムタクもタモリの意見を聞いて

「僕は夢を持ちたい」ということを言っていたが

ネットの記事になると「キムタク、タモリの意見全否定!!」となる。

 

そう、ネットが発達して

「文字」でのやりとりが多くなり

「言葉」というものの裏にあるものを

僕たちは段々読み取れなくなってきた。

それは「感情」よりも「ルール」が優先されるように

「言葉」というものの優先度が本当に高くなってきた。

 

 

大概の人が夢を持たなくちゃいけない

一つじゃなきゃいけない

職業じゃなきゃいけない

変えちゃいけない

夢に向かって努力しなきゃいけない

と思っていると思うが(僕もずっとそう思っていた)

そんなことはない。

と最近気付いた。

夢なんてもっと自由で適当だ。

そもそも「努力」という言葉は嫌いだ。

意味が良くわからない。

それでこんなんになってしまったのかもしれないが。

 

僕は夢を叶えたいとも思っているが

正直言うと夢なんか叶わなくてもいいとも思ってる。

自分のそういうところがダメなんだよ!というのも分かっている。

分かっているということを言って批判を避けるのも分かっている(笑)

でも、もう夢を追いかけているフリはやめた。

 

ただ夢はある。

日産スタジアムでコンサートすることと

綺麗なお姉さんのヒモになることだ!!

 

事件の話をしようと思ったらこんな終わり方になってしまった。

この記事の現象自体が人の多面性を表しているかも知れない。

許してほしい。

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