ほとんど家にいる

フリーター時々ニートが世の中にある「死ねばいいのに」と思ったことを書きます。

「アインシュタインよりディアナアグロン」問題

HKTの「アインシュタインよりディアナアグロン」という歌が

女性差別だと批判されていて

歌詞を書いた秋元康が叩かれているらしい。

このニュースの見出しをチラッと見たとき

どうでもいいと思ったので調べなかった。

 

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しかし、今日も例の如く昼頃に起きて朝日新聞を読んでいたら

『「おバカでいいの」の歌に傷ついた』(東京都 18)

という見出しに目が留まった。

投書欄に女子高生が送ったものだった。

 

「どんなに勉強出来ても愛されなきゃ意味がない」

 

「世の中のジョーシキ何も知らなくてもメイク上手ならいい」

 

という歌詞に傷ついた言う。

 

「学生時代はおバカでいい」

 

というのは言語道断らしい。

 

僕はモテ研究家として

若い女の子の意見が気になるので

再びこの問題について考えてみることにした。

そもそも新聞の投書欄は平均年齢がめちゃくちゃ高い(笑)

ので若い人の投書が載るのは珍しい。

 

ツイッターだとかブログだとかあるのに

わざわざ新聞に投書する若者というのは

相当な熱量を持っているのだろう。

 

 

初めこの歌の問題を聞いたときに

昭和の歌はもう歌えないな思った。

 

「芸のためなら女房も泣かす」

 

「三年目の浮気ぐらい大目に見ろよ」

 

「時には娼婦のように」

 

 

こんなものセクハラモラハラよ!

という田嶋陽子の声が聞こえた気がした。

 

時代が違うのでそれを認めろということではないが

昭和にはそういう歌があった。

普通に売れていた。

しかし「時には娼婦のように」というタイトルは

今見ても凄い。

歌詞を書いたのはなかにし礼大先生である。

 

 

次に思ったのは

歌の歌詞なんかより順位を付ける総選挙とか

握手会とかの方が

よっぽど残酷であるということ。

僕は真面目ではないので「やめろ!」と言う気もないが

どう考えても歌詞なんかよりひどいことは

いくらでもやっている(笑)

AKBに関係なくテレビとか他のメディアにしても。

 

それに男に対しても「男は年収1000万以上じゃなきゃダメ」とか。

まぁそんなことを言われても僕はちっとも傷つかないが(ちょっとは傷つけよ!)

 

 

だから要は叩きやすいものを叩いてるだけなのだ。

出てきたモグラを叩いている。

いや、叩かされている。

 

出されたモグラを叩かされている。

 

名言ではないか。

次の新曲のタイトルに如何だろうか?秋元さん(笑)

 

 

まぁそれだけAKBがメディアを取り込んで

注目の的になっているという証拠でもある。

こういうことは

ロックが不良と批判されたり

テレビ見ると馬鹿になるとか

別に昔からあることだ。

 

しかしネットというのは

反射的に叩けるのでそこが違う。

この問題に限らず

なにか僕の印象だと愉快犯というか

そういう人たちが始めに騒いで

真面目な人たちに知らせて

騒ぎを大きくしているような印象がある。

そして下まで引きずりおろそうとしているような。

 

ネットというのは怖くて

実は自分を愉快犯だと思っていなくても

知らぬ間になってしまっているというか、届いていて

一人ひとりは意識がなくても

批判される当事者に届くころには

雪だるま式に大きくなっていることがある。

 

それと何かを批判するときに

浴びせている罵詈雑言はいいのだろうか?

その自分は省みないのだろうか?

歌詞よりもネット上にはよっぽど酷い言葉が蔓延っている。

 

確かに秋元康と一般人は”立場”は違うが

両者ともなんでも言っていいわけではない。

やはりちゃんと届いている

届いてしまう、ということを自覚するべきだ。

 

よく表現の自由という言葉が使われる。

みんな大好き表現の自由(笑)

表現の自由」という言葉で担保されるくらいのものが

「自由」なら全く魅力的ではない。

それはルールで作られたものを「自由」と言っているということで

結局ルールの範囲内ではないか。

ルールを破ることが「自由」でもない。

僕の考える「自由」というものはもっと魅力的なものだ。

 

 

一般人”だから”、匿名”だから”何を言ってもいいわけではない。

お客様”だから”ミスしたら土下座させて当然とも思わない。

 

AKBには恋愛禁止というルールがある。

ルールを破ったから握手会で何を言ってもいいと思っている人は

自分の方がよっぽど酷いことをやってることを自覚した方がいい。

 

正直言って握手会でアイドルに「俺のこと覚えてる?」

と言える人の気が知れない。

僕は自分で覚えてるわけないだろ。と思ってしまう。

そもそも握手会に行ってアイドルに自分を見られるのが恥ずかしい。

そこまでの自意識過剰もどうかと思うが

自分を覚えているかどうか聞ける人も

逆の意味で相当な自意識過剰だ。

そういう商売なので仕方ないっちゃ仕方ないが。

 

元カノがハロヲタなので一回キュートの

握手会に付いて行ったことがある。

別にファンでもなかったが

「応援してます」「頑張ってください」くらいのことを

言うのが関の山だ。

 

 

 

話がいろんなところに飛んでいるが気にしないでほしい。

 

 

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舛添さんの件でも思ったが

細かい所にツッコみだすと

それは自分の首も絞めることになる。

別に舛添さんを擁護するつもりもないが

あまりに細かい所を叩きだすと

自分も息苦しくなってくるということだ。

こういうことは「ゼロサムゲーム」とか「マイナスサムゲーム」と言うのかもしれない。

 

不満を持った人が誰かを引きずり降ろそうと

真面目な人たちに知らせる

そういうことばかりをしているように見える。

 

ただ、学校の”いじめ”のように

誰かを引きずり降ろそうとしている人たちも

ツッコミの対象になり得るので

下に落ちないように必死なのだ。

 

 

ゼロサムゲームに持ち込もうという考えは

「真面目にしていても報われない」という心理も裏側にあるだろう。

景気が悪いと言われているのもあると思うが

ネットによってすべてが相対化できる時代になってしまった。

「相対化」による”シラケ”が

ニヒリズム」になっているのだろう。

 

例えば、イチローが「何歳から野球を始めた」、

「高校のとき何本のヒットを打った」

という情報がネットによって入ってくる。

その情報を耳にしたときに人は自分と相対化して

イチローのようにはなれないと決めつける。

それならせめて誰かを引きずりおろしたい

と考えるのが、弱い人間の心理である。

 

そういう所から火が付き

真面目な人のところまで火事は広がるのだ。

本当は「どうでもいい」と思っている人たちも

火事にまきこまれ付き合わざるを得なくなる。

 

みんなが学級委員長のようでもあり

教育ママのようでもある

全ての襟は正されるのだ。

 

冒頭の女子高生は

 

「作詞した秋元康氏には、多くの女性を傷つけたことの重大性を自覚してもらいたい。」

 

という言葉で締めているが

 

「私も”かわいい”と言われてうれしくないこともない」

 

とも書いている。

これを見たときに僕はかわいいと思った(笑)

僕の中で彼女の人格が緩むのだ。

別に男女に限らず人が人を”かわいい”と思うのは

そういう所ではないだろうか。

 

短い言葉、見出し、文字だけで憎悪を感じて

反射に対して反射で返してしまうが

実は批判を受け止める方も

真面目になり過ぎている側面がある。

 

そういうことを分析している僕が

実は一番真面目かもしれないと

たまに思う。

 

HKTの歌については実はどうでもいい。

女子高生にキャーキャー言われたい。