幸せだとは言わないが不幸ぶるのは柄じゃない。

昨日、近所のおばあちゃんが家を訪ねてきた。

親がいなかったので僕が対応したが

要は次の選挙で公明党に入れてほしい

ということを親に言いに来たらしい。

 

僕はそんなに話したこともないし

東京に住んでいることになっているので

さすがに頼まれなかったが

実は18で上京して住民票を移してなかったので

選挙に行ったことがない。

正直誰でもいいと思っている。

 

「誰でもいい」というのは

政治に期待していないというより

社会に対してそんなに不満がないのだ。

それは僕が働いていないからだろう。

自分に対しての不満はある。

 

 

ということは逆説的に言えば

誰かに養ってもらえば

社会に対する不満は

解消されるということか?

 

ただ不満を感じている人の

不満は解消してほしいと思うので

誰でもよくないと言えば

誰でもよくない。

 

 

政治家が悪さをすると

「選んだのは国民」という論理が蔓延るが

政治家が悪さをしたら

政治家が悪いに決まっている。

 

例えば僕は戦争なんか死んでも行きたくないが

僕の投票した人が何年後かに

「戦争します」と言っても

その時に反対するまでで

「お前が入れたからだろ」と言われても

そんな後の事などわかるはずがない。

選挙で「戦争します」と言うはずもない。

 

 

人の不満や悲しみは個人的なことなので

他人のことをいくら慮っても

それは嘘である。

しかし嘘だからこそ他人の不満が解消されれば

自分にもイイモノが返ってくる。

 

だから不幸ぶる必要というのはない。

 

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 (これは僕が撮った星だ。画像がなかったので(笑)

 

僕みたいに大して不満もない人は

実は結構いると思うが

「不幸です」とか「不満がある」とか

の方が何故だか言いやすいのだ。

これは日本人的感覚かもしれない、わからないが。

「人の不幸は蜜の味」とはよく言ったものだ。

 

アパートを解約して自らホームレスになった時に

「実家から金を貰ったということを書くと応援してもらえないよ」とか

「帰る家がある人はホームレスではない」と言われたりしたが

その通りだと思うし

僕も「ホームレス」という言葉を利用すれば

助けてもらえると思ったので偉そうなことは言えないし(笑)

その人たちへの不満があるということではない。

 

しかしこの経験から逆に言うと

人というのはどれだけ表面的な

モノしか見ていないかということがわかった。

何不自由なく暮らしているように見える人でも

その人の”個人的な悲しみ”がそこにはあるかもしれないのだ。

 

何度も言うがその人達に不満があるということではない

寧ろ優しくしてくれたし

ネット上でもみんな優しくしてくれた。

「社会が冷たい」とかそういうことを言いたいわけでもない。

”個人的な悲しみ”というものが

あるということを自覚して生きたいと僕はそう思ったのだ。

 

また繰り返すが、他人や社会に対して

「一人ひとりにもっと気を使え」ということを

言いたいわけではない。

僕が優しいわけでもないし

僕だって人を傷つける。

 

ただなんていうかな

自分が「不幸」と言っている人より

「幸せ」と言っている人を応援したい。

「不幸」と言ってしまう人の気持ちもめっちゃわかるし

僕も全部を肯定なんてできない。

 

以前是枝監督の「誰も知らない」という映画を観た後

人はお金がないことよりも

人との繋がりを断たれることが一番辛いのだなと思った。

僕の不満が今は少ないのも多少なりとも人と繋がって

自分のことを話せているからだろう。

それは飯を食えてる奴の”甘え”かもしれないが

悲しみは個人的なんだよ。

 

 

自分のことが不幸だと思ってしまう時は

夜空を見上げなら吉田拓郎の「流星」を聴こう!

 

「幸せだとは言わないが 不幸ぶるのは柄じゃない」

 

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