天才シンガーソングライタークリエイターラッパーブロガーコンビニ店員のブログ

ショート・ローリングストーンでITUNES他で配信中!!

寄生獣を読んだ。

寄生獣(通常版全10巻)を読んだ。

いや、読んでしまった。

この漫画を読むと僕は放心状態というか

モラトリアムになるから読みたくないのだ。

僕が働いていないのもこの漫画のせいだ(笑)

 

f:id:syoto1988:20160614152840j:plain

(ミギーかわいい。こんなデザインの奴をかわいいと思わせるのが凄い)

 

いやーやっぱり何度読んでも面白い。

感想は長いので乱文になるけどお許しください。

 

この漫画の物語は

大きく捉えれば環境問題への警鐘ともとれるし

「人間」とは何か?「理性」と「欲望」との対立も描いているし

ただ単に少年の成長譚としても読める。

いろんな読み方ができるが素晴らしい。

バトルも面白いしね。

 

パラサイト(寄生獣)は人間の暴力性や性衝動のメタファーだ。

パラサイトが人間を食べるシーンってのがあるんだけど

これがまぁわかりやすくいうとレイプみたいなもんでさ。

ほとんどそのシーンは男のパラサイトなんだよね。

イケメンの顔になって女の子を釣るっていう。

 

だから作者の岩明さんは相当、暴力とかレイプとかに嫌悪感があるし

自分の中にもそういう男性性があるということを嫌ってる。

不良に対した新一にも「ケンカなんかして楽しいかよ」っていうセリフを

言わせている。

その後に「いっそおれがここで全員叩きのめしてやるか」というセリフも

言わせるんだけど、これは暴力に対して更に上の暴力で叩きのめさなければという思考で、要はいじめられっ子がナイフを持つ心理。

新一にはミギーがいて強くなったけど現実世界にはいない。

だからミギーっていうのは現実でいうとナイフとか

まあ暴力性だね。

暴力性でもあり、もう一人の自分でもあり、本当の自分でもありというところか。

だから初めの方でミギーがチンチンになったりするんだよ。

 

面白いのはこの漫画自体が一人の人間の心の中ということ。

一人の人間が書いてるから当たり前と言えば当たり前なんだけど

そういうメタ構造になってる。

なんて言えばいいんだろう「寄生獣」という漫画自体が新一なんだよ。

新一VSパラサイトでもあるし

新一VSミギーでもあるし

理性VS欲望でもあるし

とにかくこの漫画自体が一人の人間の心理である。

そこらへんがすごいうまいなと思うこの漫画は。

重層的な構造になっている。

 

こういう「もう一人の自分」を別の物体として出したりするの物語はよくあるんだよね。

ドラえもんとか鬼太郎とか。

もしくは心の葛藤として、本当にもう「一人の自分」として描くか。

この漫画のもとになったと言われてるデビルマンがそうだ。

でも同一体でありながら、そこに物体として存在しながら意識は別、

というこのアイデアがやっぱりこの漫画の重層的な読み方を

生んでいると思う。

 

デビルマンも初めてコミックになった形式のやつを

全5巻5000円で買って読んだんだけど

確かに面白いは面白いが

寄生獣の方が断然いろんな読み方が出来て面白い。

まぁ時代が違うので単純に比べても仕方がないが

終わり方とかも全然こっちの方がうまいと思う。

 

ていうかファンタジー描く人は

時代が進むにつれ情報が増えてって

整合性をとらなきゃいけないから大変だよな。

昔は適当でよかったことも今じゃ見過ごされなくなってるから。

 

そう、それで新一というのは人間の理性と感情と

ミギーの暴力性と合理性が合体してるんだよね。

人間性と非人間性。

ただどちらが人間性でどちらが非人間性か?

というのがこの漫画のテーマでもあるんだよ!

そこらへんも凄い!

 

パラサイトのくせに赤ちゃんに情を持ってしまう田宮良子と

人間のくせにパラサイト側に立ってしまう広川は

対になっている。

だからこの物語自体が新一なんだよ。

 

正に新一というのはその間でシーソーのように揺れ動く人物で

途中でミギーの細胞が体内に入ってから

どんどん暴力的になり感情を失っていく。

ただ暴力的になると言っても

これが「暴力」だというものが人間側の視点なので

暴力性というのは今僕が現実社会から見た言い方だ。

 

新一の心境の変化は髪型の変化によって

わかりやすく描かれている。

1巻はデコを隠していて

3巻で母親の死をきっかけにオールバックにする

10巻でミギーが腕から離れた時は再びデコを隠しているが

一年後の最終話では一部だけデコを出している。

実はラスボスの後藤を倒す瞬間も一部だけデコを出していて

これは新一の決意の表れでもある。

端的に言えば彼の精神的な成長を髪型で表しているのだ。

 

ただオールバックの時のように暴力性や合理性に

支配されているわけではなく

一部だけデコが出ているということは

暴力性や合理性を内なるところへ抱えながらも

生きていくことを選び成長したということだ。

 

「それは新一くん…きみが新一くんだから」

というセリフを最終話に恋人の里美が言うが

正に新一でありながら新一は成長した。

 

髪型でいうと一年後には里美も髪が伸びていて

女性らしくなっているのが面白い。

上記のセリフを言う時も髪が顔にしなだれかかっている。

岩明さんというのは最新作の「ヒストリエ」を見ていても

こういう感じが好きなのだなと解る(笑)

たぶんロングヘアーが好きなのではないか。

 

因みに里美の恋敵の加奈はロングヘアーで

化粧もしているし大人っぽい存在として描かれている。

性格は少女っぽかったりするが。

漫画上では描かれていないが、新一と同様

里美も成長したのだな読者にわかるようになっているのがうまい。

まぁセックスもしたしな(笑)

 

 

この物語が更に面白いのは

新一と同様にミギーも変わるということだ。

こういう物語は他にはあまりない。

新一に対してどんどん喋り方がフランクになっていったり

何巻かは忘れたが途中で新一につられて

同種のパラサイトのことをバケモノと言いそうになったりする。

明らかに意図して描いているのが分かる。

しまいには「友達」とか言い出すもんだから

泣かずにはいられない。

新一の中にミギーが取り込まれていったように

ミギーの中にも新一が取り込まれていったのだ。

 

「少年の成長譚」というところでいうと

母親の死があって

友達(ミギー)との別れがあって

父親への説得があって

セックスがあって

SF漫画ではあるんだけど

全て現実に当てはまることばかりやってるので面白い。

 

この漫画は「セカイ系」と呼ばれているのだろうか?

僕は「セカイ系」と呼ばれている漫画やアニメがあまり好きではない。

狭い世界に閉じていて周りの人間は何もわかっていない

馬鹿のように描くからだ。

 

寄生獣」は何か違う気がする。

確かに主人公は特別な能力を持ち世界を救うが

閉じているような感じを受けない

この物語はちゃんと「他者」が存在するのだ。

 

寧ろ「セカイ系」みたいな物語を批判しているようにさえ思う。

(当時はそんな言葉はなかったが)

主人公の新一は恋人の里美にさえ

自分が”特別”であるということを話せないのだ。

これは話さないで本当によかったと思う

そこら辺の距離感が絶妙だ。お涙頂戴にならない。

同じ悩みを持った宇田さんとも距離を取るし。

後藤を倒したことも誰も知らない。

つまり新一はヒーローではない

ちゃんと最後に”日常”に戻るのだ。

そう考えるとこの物語は壮大な「自問自答」とも言えるだろう。

 

セカイ系」の主人公も必ずしもヒーローになるわけではないが

やはり「日常の中へ」(最終話の一話前のタイトル)戻るのが重要だ。

それと新一が途中パラサイトの能力によって超人になり全能感バリバリ、

正にセカイ系主人公の「俺以外バカ」「俺は繊細」「俺はかわいそう」状態に

陥った過程もちゃんと描いている。

そこら辺も寄生生物の設定が活きていて

”特別”なのは新一ではなくてミギーでありパラサイトなのだ。

パラサイトは「俺以外バカ」の心

つまりは「オンリーワン」の欲望のメタファーともいえるし

自分のことを特別だと思っているのは敵の後藤の方なのだ。

 

そして最後に殺人鬼の浦上を倒すのも重要だ。

浦上はニヒリズムというかパラサイト側の考えの人間だ。

つまり暴力性や合理性が人間本来の姿であるという考え。

 

この漫画が語るのが難しいというかめんどくさいのは

パラサイトというのがオンリーワンの欲望の象徴でもあり

そいつらの考えは、生物として自然なことをやっているだけだという

ワンオブゼムでもあるということで

どっちも持っているのだ。

パラサイトは暴力性、合理性、性衝動の他にも

単純に人間の弱さ、感情とも言える。

正にこの漫画のパラサイトの如く場面によって意味合いが変化する。

 

浦上という殺人鬼を倒すことによって里美を助けるのは

新一はワンオブゼムでもないということで。

 

えーと、まとめるとつまりはどういうことかというと

自分は世間的にはオンリーワンではなくて

ワンオブゼムではあるが

自分の大切な人はオンリーワンで

その人を大切に思っている自分もオンリーワンということだ。

 

長々と書いたが要はこの物語は一言でいえば

「自己愛」を獲得していく物語であるということが言える。

逆説的に言えば自己愛は他人を愛することで生まれるということ。

殺人鬼の浦上は他人を愛せないので

いつまでたっても自己愛をもてていない。

それが死に際して新一を「友達」と言って孤独感を覚えたミギーや

赤ん坊を守ることによって笑いながら死んだ田宮良子との違いだ。

 

結局第一巻の「尊いのは自分の命だけだ」というオンリーワンの

ミギーのセリフを最後まで描き通していてそれも事実であるし

ただ生物として「食ってるだけ」というワンオブゼムも事実である。

 

いや、待てよ「尊いのは自分の命だけだ」というのはワンオブゼムか?

ワンオブゼムだからオンリーワンなのかも知れないな。

やはりどちらも含んでいるのだな。

前に僕がブログに書いた「生きてるだけで丸儲け」、「人は転がる石」

とワンオブゼムの名言を残している

明石家さんまやボブディランがオンリーワンなのと一緒のようなことか。

 

パラサイトが暴力性や性衝動や合理性のメタファーであるということは書いたが

ただ単に「感情」のメタファーともとれる。

パラサイトは具現化してしまうから感情を失っていくのだ

言葉にできないモヤモヤしたものを具現化するとアレになるのだ。

岩明さんは普段から言葉数も少ないのだろう

人間を描くのははっきり言って上手くないが

一巻から怪物を描くのは妙に上手いし凝っている。

たぶん本人が絵として描きたいのがそこなのだと思う。

絵の元ネタのフランシスベーコンの絵画も僕は一発で気に入った

グロイとは全く感じず「おかしさ」を感じる。

ベーコンの絵もやはり感情なのだと思う。

 

寄生獣の映画もアニメも見ていないが

パッと見ただけで漫画とは別物とわかる。

言葉にできない感情を最大限具現化しているのがこの漫画の魅力であるのに

それを高度にデジタル化、実写化しては全く別物ということになる。

言葉にすることや絵にすることも「デジタル化」していると言えるのだが

本人が漫画というフォーマットを選んだということは

それが一番自分の”感情”から遠くないと思ったということだろう。

具現化できない感情の物語を「最新のCGで再現!」とか言っているのは

はっきり言って作品の価値とは逆の方向に向かっているのだが

そういうことは関係ないのだろう。

映画やアニメというのはそんなものなので別物として見ないだけだ。

 

感情を持たないパラサイトが人間の合理性のメタファーならば

感情は合理的ではないということになり

感情を持っている”人間”は合理的ではないということになる。

そんなことは漫画に描いてあるが整理のためだ。

 

 自己愛の話に戻る。

自己愛というのは他人を愛することでしか生まれ得ないのか?ということが気になる。

もう一人の自分を他人と考えればいいのだが

それも限界がある。

 

他人を愛したから他人から愛されるのか

他人から愛されたから他人を愛せるのか

僕は後者であると考える。

他人を愛することで自己愛は増幅はするだろうが

やはり始めは後者だろう。

誰にも必要とされていない自分で

誰かを愛せるはずもない。

 

だから人は他人に必要とされようとするのだ。

自分を愛するために。

”誰にも必要とされていない自分”で誰かを愛せるのなら

誰かに必要とされることを望むわけがない。

 

この漫画の新一も

母の火傷で母に必要とされていることを思い出し

戦いの中でミギーや恋人や父やおばあさんに必要されている実感をしだす。

ミギーや田宮良子の変化も同様に他人から必要されてる実感だ。

 

ということはやはり

残酷なようだが

自己愛を持てない人は

誰かに必要とされる自分になるしかないのだ。

自分を変えるしかない。

もしくは今の自分を必要としてくれる人に出会うか。

それは必ずしも大多数の”世間”である必要がない。

 

人間が子供を欲しがるのもそういう面があるんだろう。

赤ん坊は絶対に誰かを必要とするし

男女間だけでは肉体的な衰えと共に

必要とされている実感は減っていく。

究極はセックスだもんだって。

高齢者の介護も子供のそれと同じだと思うが

人間はやはり死を見届けるのが嫌なのかな。

 

この世の中何について考えても結局自己愛

の問題にあたる。

僕がそういう作品が好きなだけなのかな。

まぁ読んだことない人は読んでみてね。

広告を非表示にする