ほとんど家にいる

フリーター時々ニートが世の中にある「死ねばいいのに」と思ったことを書きます。

「#音楽に政治を持ち込むなよ」に見る実体のない議論。

実体がないネットの議論

フジロックにシールズが出演するとかでツイッター

というタグが話題になっているらしい。

今日の朝日新聞にまでこの話題が載っていた。

#新聞にツイッターを持ち込むなよと言いたい気分だ。

しかし実際ツイッターを見てみると「音楽を政治に持ち込むなよ」と言っている人はいない。

少なくとも新聞で取り上げるほどには。

みんなこの話題に対してあーだこーだ言っているだけだ。

 

これがツイッターとかネットの社会だ。

実体がないのに言葉だけが独り歩きして

どんどん雪だるまが大きくなっていくのだが

中身はスカスカだったりする。

 

スカスカじゃない場合もある。

実はどうでもよかったのに

言葉先行というか話題先行で

それに対して熱を持つ人もいるからだ。

大きくなった雪だるまを見ていると転がすのに参加したくなるのだ。

 

まさに僕が前に言った

出されたモグラを叩かされている状態

のようだ。

これは意見に対して賛成派も反対派も実は同じなのだ。

それについて記事を書いている僕も同じ。

 

火事に例えたほうがわかりやすいかもしれない。

ネットは「炎上」と言うし。

ネットの話題の広がり方は

誰かが「火事だ!」と叫ぶ場合もあるし

100人が小声で「火事じゃね?」と言って広がる場合もある。

今回の話題は後者かもしれない。

後者の方がタチが悪い。

責任の所在がないし賛成派も反対派もこの話題に対して

どうでもよかったりする場合が多いからだ。

 

今のテレビ番組がつまらないのはそういうことろでもある。

ネットの話題で議論しましょうとかいっても

大多数の人は本当はどうでもいいのだ。

その話題自体よりも肝は自己承認願望にある。

どうでもいいのだがテレビでやったということで火事は更に広がる。

 

そもそもタグを作った人はアイロニーとして書いたらしい。

政治を歌った曲と

というタグを同時にツイートするという冗談だ。

その意味からもかけ離れているというの一つのポイントだろう。

 

まぁでも言ってしまえばその”誤解”と”火事の広がり”が

ネットの良さというか、ネットというのはそういうものとも言える。

良い言い方をすれば「バズる」になり

悪い言い方をすれば「炎上」になる。

 

前にYoutubeにモノマネ動画を投稿したら

知らない人達が僕のモノマネについてコメント欄で勝手にケンカをし始めた。

その時の違和感に似ている。

 そういう意味でエンターテイメントというのも

昔から”誤解”と”火事の広がり”ではあるのだが

ネットの違いというのは実はそこに熱量がないことに起因する。

コメント欄でケンカしていた人が僕に愛があるのかというとそうでもない(笑

 

 

ネットの楽しみ方とは「どうでもいい議論」

 

 

しかしこんなことを言わなくても

わかっている人はわかっていると思う。

この問題について発言しているアジカンのゴッチだとか津田大介氏だとかはわかっているはず。

なのに何故そういう議論に付き合うかというと

何度も言うようにそれがネットだからだ。

それがネットの楽しみ方だ。

菊地成孔氏曰くネットというのは「終わらない学級会」であるが

その学級会に参加しない手はないのだ。

ネットをやるからには。

 

だから僕みたいに引いてメタに発言していても炎上することもないしつまらない。

ホリエモンみたいに自分で爆弾を投げて自分で突っ込んで

呼ばれてないのに首を突っ込んで議論して反論して

そういう使い方が正しいのだ。

いや、正しいという言い方もおかしいが

ネットというものを最大限に利用するやり方がそれだ。

つまりはコメント欄でケンカすることの方がネット社会では普通であるかもしれない。

特に最近の若い人はスマホマスト世代なので

そういうことを臆面もなく出来ると思う。

 

僕は1988年生まれなのでネットというものに

ドップリ浸かりだしたのはいっても二十歳越えてからだ。

パソコンは高校生の時に自宅に導入したが アマゾンでCDを買うくらいだった。

田舎なので進展が遅かったのもある。

携帯も中3くらいからみんな持ち始めたが

当時パケホ放題ではなかったので自由にネットはできなかった。

ホリエモンが「スマホというものが登場してみんな初めてネットというものが分かった」と言っていたが

まったくその通りである。

同じ20代といっても3、4歳の違いでだいぶネットに対しての捉え方が違う部分がある。

ましてや学生時代にスマホをマストで過ごした世代とは全然違う。

勿論世代論だけでは語れないが。

 

 共通の話題がない現代

 

話は戻るが何故終わらない学級会が始まるかというと要はみんな議論したがりなのだ。

それは今”共通の話題”というもがないからに他ならない。

多様化しすぎたからこそ共通の話題を求める。

これは東京ポッド許可局というラジオで出していた一つの仮説だが

この録画時代にテレビドラマの「半沢直樹」や「家政婦のミタ」が40パーセントも視聴率を取るのも、共通の話題がないからこそみんな話題になっているものに飛びついてツッこみを入れてるのではないかということだった。

確かに「半沢直樹」や「家政婦のミタ」が歴代ドラマ視聴率にランクインするような作品と比べて後世に残るような面白さや話題性があったかというと

これは僕の主観だが無いのだ。

ツッコみ所や視聴率という面での話題性は後々出てきたものだ。

だからドラマ作品というよりはツッコみを入れる所までが一つのイベントと化して視聴率が上がったと言えるかもしれない。

逆に言うとそういうものではないともう視聴率など取れないだろう。

 

90年代はゴールデンのテレビならば毎日20パーセントを超えていたわけだし

次の日学校や会社に行けばそれが共通の話題になった。

今は皆が知ってるヒット曲もない。

ゼロ年代はテレビにしても音楽にしてもその残像を追いかけている部分があったが

2010年以降はスマホが普及したのもあってか完全になくなった。

それはバンドを見ると物凄いわかりやすい。

ヒットというものを始めから諦めて、自分たちの好きな音楽をやろうという人たちがここ2、3年増えている。

音楽が作り手の手元に返ってきている。

 実は90年代のCDバブルの時もそういう感じがあって同じような印象を受けるのだ。

つまりは「どうせ売れないだろう」という気持ちは「どうせ売れるだろう」という気持ちと変わらないということだ。

僕が前から言ってるようにネガティブとポジティブは実は変わらない。

言葉だけの問題だ。

大事なのはやるかやらないかだ。

 

話がずれたがじゃあ現代がテレビ以前の小さい社会に戻ったかというと違いがあって

ネットというものがあるのでそこでは共通の話題を欲するのだ。

これもまた逆に言うと共通の話題というのはネットの世界でしか必要なくなっているのかもしれない。

リアルな世界で共通の話題がない人とは話さなくてもよくなっているのだ。

この話題を取り上げて僕が記事を書いているのも共通の話題がないからだ。