「君の名は」と他のセカイ系作品との違い。

 セカイ系の自意識

 

「君の名は」を観た後に

ネットで感想を漁った。

 

なんと

「君の名は」はセカイ系だったのか!

 

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あの宇多丸氏も

そう言っていた。

 

言われるまで気付かなった。

 

僕はセカイ系なるものが

あまり好きじゃない。

 

なんでかっつーと

僕が見てきたセカイ系の作品のイメージというのは

自分が世界にとって重要な人物である

というもので

 

僕は

自分が世界にとって重要かどうかなんてどうでもいいじゃねーか

と思ってしまう。

 

 

要はセカイ系と呼ばれるものの

 

肥大化した自意識

それに伴って発生する

被害妄想的被害者意識

が大っ嫌いなのである。

 

そういう意味で

「君の名は」と同じアニメ映画でも

細田守監督作品にはまったくノれなくて

はっきり言って嫌いなのだ。

(細田作品の方がよっぽど僕がイメージするセカイ系に近い)

 

宮崎駿亡き後のアニメ界で

僕は完全に新海派である(笑)

 

 「君の名は」と「セカイ系」作品の違い

 

 

では「君の名は」が

他のセカイ系細田守(呼び捨て)と

何が違うのかと考えると

それは一言で言えば

動機が

超個人的な欲求なのだ。

 

「君の名は」の主人公はタイトル通り

「君」の名前や

文字通り、僕の中にいる

「君」を探しているだけで

 

世界を救おうとか

多くの人の命を救おうとか(結果的に救われるが)

そんな動機ではないのだ。

 

ただ、好きな人に会いたい

それだけ。

 

そこが他のセカイ系作品と違うし

そこに僕は共感する。

 

何故なら

それこそが自己愛だからだ。

 

 

そんな

個人的な欲求で生きていていいのか?

言うのがゼロ年代初頭から若者に生まれた

自意識の肥大であり

 

ねぇ世界?これやっていいですか?

イチイチの他人への目くばせも

今の若者とセカイ系の考えの特徴なのだ。

こういうものはBUMP OF CHIKENの歌などにも

感じられる。

 

昨今の若者が何故

こういう考えに陥るのかというと

自分で責任を取りたくないからだ。

ネットで責められるのが怖いのだ。

 

個人的な欲求で動けば自分で責任を取らなければならないし

欲望というものを大っぴらに見せてはいけない

それは

意識せずとも今の若者の根底に

スポンジでいくら洗っても取れない

頑固な油汚れのようにこびり付いている。

 

しかしもっと自分の欲求通りに

動かなければ自己愛は得られない。

それは同じコミュティの人間だけで集まった時だけに

解放するような二面性でもなく

極から極へ振れるような開き直りでもなく

 

もっと自分の生活の中へと落とし込むようなイメージで

暮らすことが出来れば

そこに寛容さ生まれるのではないかと

僕は思っている。

 

 

 

映画の後半で

 

「君の名前は!?」

 

と何度も繰り返し

互いに求め合う姿を描いた「君の名は」は

被害妄想的被害者意識の良心の呵責

を突破していた。

 

そういう意味で

この作品は間違いなくエポックであり

新たな時代の若者の指針として

機能することを感じさせた。

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