映画『何者』に感じる、退屈さの正体。
『何者』について宇多丸氏が絶賛していたので
再び僕が思ったことを書きたい。
正直言って僕はあの映画について否定的である。
というか至極退屈だった。
ツイッターを巡る自意識について
ツイッターの裏アカを最後にドーン!!と出す。
「ツイッターをやってないと立ってらんないんでしょ!」
みたいなことを二階堂ふみが言う。
監督と原作者の対談も
まぁチラッとしか見てないんだが
「ツイッターで発言するときの自分は醜い」とか
いう内容だった。
なんで退屈なのかと思ったら
原因はここにある気がする。
こちとらそんな自意識とうに超えてんだよ!
っていう風に言いたい。
で
まさにその先を描いているのが『君の名は』なんだよ。
だからちょっと古いんだよねテーマが。
それで調べてみたら『何者』の原作は
『桐島』の映画公開された2012年に出版されてて
「あーだからか」と思った。
これはあくまで僕の印象だけど
ネットやSNSを巡る
「自意識」のことについては
2010年ぐらいがピークで
14~15年には終わってる。
っていうかもしかしたら
『桐島』が終わらせたのかもしれない。
あの映画は直接ネットは出てこないけど。
「自意識」という問題については。
しかも
『桐島』は原作→映画化までの間が2年なんだけど
『何者』は4年なんだよね。
朝井リョウはすごく時代を切り取って
時代に寄り添って書く作家だし
そういうのもある。
今見ると『桐島』も「つまんない」
という訳じゃないと思うけど
時代は次のフェーズへ行っちゃってんだよ!
その先が見たいんだよ!
と言う感じ。
『何者』に関して「何が言いたいのかわからない」と思う人が
割と多いのは
そういう所があるんじゃないかと思いました。
そもそも
「何者観たけど難しくてわかんなかった~」とか
カップルのプリクラと共につぶやいている奴は
そんな「自意識」を始めから持っていない(笑)