日本語の重さと「愛してる」言えない問題
日本人の演技について
さっきまで山田太一脚本のドラマを見ていた。
セリフを一言一句そのまま読ませるのが
山田太一の特徴である。
ドラマ自体はそんなに面白くなかったが
この演出は逆に新鮮と言うか
「言葉」でコミュニケーションをとる
日本人には理に適っているような気がした。
さもなくば日本人の「演技」はアニメ化し「キャラ」
になってしまうのではないか。
キャラになってしまってはタレントにフォーカスが当たり
お話を語りにくいのではないか。
「自然な演技」を撮ろうと思うと
どうしても「静」が多くなり
お話を転がすのが難しい。
例えば是枝裕和のように
映画館という能動的な空間
と
大画面だからこそできるロングショットによる映像の情報量の多さ
で「動きのなさ」をカバーすることは出来るが
テレビでは難しい。
そもそも「自然な演技」矛盾した言葉だ。
しかし何故だか外人はそれが出来る。
これは逆に考えて
普段から演技しているのだ・
日本人は「静」か「動」かだ。
言葉にするか、しないか
演技するか、しないか
なので 日本人には「自然な演技」というものが
そもそもないのかもしれないというのが
僕の結論だ。
日本人の「自然な演技」は
演技をしていない状態なのだ。
日本語の重さについて
今日、山田太一のドラマを見る前から
考えていたことがある。
「愛してる」言えない問題
よくバラエティなどである
「日本人は「愛してる」なんてよう言わん!」(明石家さんま)
みたいなことも日本語の重さから考えると充分にわかる
歌詞でも言う人と言わない人がいる。
僕の好きなミュージシャンで言うと
(志村はこのことについてインタビューでも「言わない派」だと答えていた)
しかし、
それで相手が喜ぶなら
僕は「愛してる」くらい言ってやろうという気持ちがある。
そこに対して照れることや重さを感じていることの方が
ダサいような気もするし
言うことによって逆に言葉の意味から解放されたいという気持ちがあるので
言ってやろうという気持ちは持っている。
昔の彼女にも言ったような気もする。
言葉の重さを感じながらも
言葉なんかただの言葉だということを
どこかわかってほしいのだ。
だって所詮歌なんか歌なんだし
何歌ったっていいじゃん。
そんなわけで
みんな愛してる。
さよなら。