日本人に「主体性がない」のは宗教がないからである。
この前
「物を捨てられない人の心理は自己肯定感の少なさ」
とネットに書いてあったのを見て
納得したという記事を書いたが
日本人は確かに自己肯定感は少ないが
それだけではないような気がしてる。
僕が考えて得た結論としては
物体が心の隙間を埋めるのならば
それは逆に心の隙間を具現化したものであると考えられ
その隙間を埋めることによって
オートマティックに自分を動かすこと
を望んでいるのではないかと思う。
そしてそれも日本人らしいなと思う。
自分を主体として考えるのが苦手なので
敢えて選択肢を狭くし
オートマティックに動かす。
配達物がベルトコンベアに乗るように。
これは一昨日書いたように
日本には宗教というものがない。
「宗教がないので仕事以外にコミュニティが無い」ということを書いた。
一応『神道』というものはあるが
祈る相手も違えば願いも自由。
信心深い方が救われるから
宗教には意味があるので
全てが自由では
宗教とは呼び難い。
『神道』とは『宗教』ではなく
『文化』の方が近いのではないだろうか。
何故『宗教』の話をしたかというと
日本人から見て外国人に『主体性』というものがあるように見えるのは
彼らが『宗教』という大きな括りの中で生きているからである。
或いは『民族』
どちらも日本にはない。
なのでオートマティックに自分を動かさなければ
不安で生きていくことが難しいのではないかと僕は考える。
だから学校、会社、上司などの命令をされて生きたがるのだ。
宗教も民族もない社会はイメージとしては
大海原でプカプカ小舟だけで浮かんでいるような感じだ。
そうしたときに道を示してくれる人がいないと
漕いで行けないのだ。
或いは海にブイを浮かべて
行く手を自ら制限しなければ。
それが日本人が沢山物体を持っている理由のような気がする。