ほとんど家にいる

フリーター時々ニートが世の中にある「死ねばいいのに」と思ったことを書きます。

この世界の片隅に、歯の抜けたおじさん。

シェアハウスの同居人の人がDJをするということで

とあるBARに行った。

 

 

薄暗い…。

 

雑居ビルの地下…。

 

こんなとこは一見さんは絶対気付かないだろう

という感じの場所…。

 

 

 

 

常連であろうおじさんに(歯がない)(歯がないので時折唾が飛んでくる)

「インドの神様ってのは破壊と再生と保守だ!

保守が一番悪い神様だ!」

 

という話を3時間の間

5、6回聞かされる。

 

「最近流行りのよ『この世界の果てに』って映画見たんだけどよ!

あれ見て俺は戦争しちゃいけないと思ったね!!」

 

という話も

3、4回聞かされる。

 

ので

前々から観たかった

 

この世界の片隅に

 

 

をBAR帰り朝からそのまま観に行った。

 

 

 

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結論から言うと

非常に新鮮で素晴らしい映画だった。

 

何が新鮮だったかと言うと

距離感の取り方である。

 

主人公のすずは最愛の旦那を亡くす訳でもなく

自分が爆心地にいるわけでもない。

今までの戦争映画であれば家族を亡くすということを

センセーショナルに描き感情に訴えかけるのが常だった。

 

しかし、この映画はそれをしていない。

義理の姉の娘が死ぬというのはあるが

やはりその関係も一定の『距離感』がある。

 

実は歴史の見方もその『距離感』というものが非常に大事で

「原爆が悲惨でありアメリカは間違っていた」

ということをクローズアップし過ぎると

見落としてしまうことが多々ある。

 

それ以外にも

沢山の人が死んで

沢山の人が傷ついて

ということも踏まえなければ

我々人間は優しくなれない。

 

これは前にも書いたが

「100人死んだ」というニュースがあった場合に

100人が死んだのではなく

それぞれ1人の人間が100人死んだという風に

考えなければいけない。

 

ということをビートたけし東日本大震災の時に

書いていた。

 

全くその通りだ。

 

つまり人の『痛み』や『悲しみ』と言うものは

極々個人的なことであるということ

それは他人から見ればものすごく

しょーもないことかもしれないが

それを認める必要がある。

 

しかし一方で自分の痛みを「なんでわかってくれねーんだよ!」と

ばかり言って、他人に期待し過ぎてもいけない。

 

心はヤジロベーのように

右に行ったり左に行ったりしても

また真ん中に戻ってくる

そんな余裕が必要だ。

 

 

更に『距離感』という意味では

フランスでテロが起きたときに

東京タワーをトリコロールに染めるということの意義は

一体なんだったのか?ということを

反射で動くのではなく『距離感』を取って考える必要がある。

 

今まさにシリアなどで起こっていることは

日本人の感情にそこまで訴えかけないが

実は日本で起きたことと全く一緒だということを

この世界の片隅に」を見れば気付けるような気がする。

 

 

非常にいい映画だったので

もう一度見たい。

 

 

そして僕はまた

歯の抜けたおじさんに会いに行くだろう。

 

この世界の片隅のBARに。

 

 

 

じゃあ、またね。