セカイ系の自意識。
また一日中ゴロゴロしてYoutubeで「BSマンガ夜話」を見ていたのだが
「小さなお茶会」というマンガを取り上げた回が面白かった。
要約すると、シラケ世代と呼ばれている1950年代から1960年代前半に生まれた人たちは80年代当時大人たちから何故政治参加しないんだ!とは言われていたが
実はこのマンガを読んで充足していたと。
読んでないので詳しくないが「小さなお茶会」というのは猫の夫婦がまったり暮らすだけのマンガらしい。
要は「僕と君」の話で世界が閉じている話なのだ。
それが”今”は世界に向けた自分、エヴァンゲリオン以後の世界というものを再び模索し始めたと岡田斗司夫が言っていた。
この番組が放送されたのは2004年なので「今」というのは12年前のことである。
2016年現在は若者の地元志向、ネットの仲間関係など
内向きになり再び閉じ始めている。
なーんだやはり歴史は繰り返すのかと思った。
ということは次は世界が「宇宙」に広がれば
宇宙に向けた自分を模索し始めるのか。
ウチュウ系とか言われる作品が出て(笑)
もしくは宇宙まで行かなくとも空や地下や海底など世界が広がったときかもしれない。
世代的にはドンピシャではあるが僕はエヴァンゲリオンをはじめとする
セカイ系と呼ばれる物語は好きではない。
セカイ系がどうして生まれたかというと
要はネット(ウィンドウズ95)というものが出てきて世界が広がって
「世界にとって重要な人物でなければいけない」という
自意識の在り方になったわけだ。
世界が広がって「もともと特別なオンリーワン」と言わずにはいられなくなったのだ。
その自意識の在り方がイマイチ共感できない。
必ずしも世界にとって重要な人物である必要がないと昔から思っていた。
自分の意志で必要とされたいのならわかる。
学生時代はそれを論理的に説明できたわけではないが
どこかで感じ取っていたのだろう。
このブログの寄生獣評にも書いたが
一見似たように見える「寄生獣」というマンガはセカイ系作品とは一線を画す。
寄生獣は「僕と君」と「セカイ」との間で揺れ動く葛藤を描いている。
「僕と君」こそが「世界」であるから
「僕と君」以外も「世界」という結論だ。
面白いのは寄生獣の連載終了が95年2月で
エヴァンゲリオンのアニメの第一回が10月
ウィンドウズ95の日本発売が11月
まさに寄生獣はウィンドウズ95発売前の「僕と君」と「セカイ」との狭間で連載された、セカイ系以前の最後の作品と言えるのだ。
歌でいうと「世界に一つだけの花」がやはり「セカイ系」と言えるのだろう。
まぁこの歌は生まれただけで世界にとって重要だよという慰めなのだが
セカイという自意識の在り方は変わらない。
実はこのセカイ系の自意識に対してのアンチテーゼとしての答えは
Mr.childrenが「HERO」という曲で出している。
「例えば誰か一人の命と引き換えに世界を救えるとして 僕は誰かが名乗り出るのを待っているだけの男だ」
「でもヒーローになりたい ただ一人君にとっての」
以前ゼロ年代前半のJPOPが嫌いだと書いたが僕の印象として
やたらと世界と言い出したような感じの歌と
逆に見たくない世界を無視したような感じの歌
ばかりだったからだ。
それは音楽以外のメディア全般に言えるが。
「僕と君」と「世界」とを相対化して
「僕」の見える世界を描いて救ってくれたのは「HERO」しかなかった。
因みに「HERO」の発売が2002年の12月で
「世界に一つだけの花」が2003年3月だ。
でも実はSMAPファンなので「世界~」はそんなに嫌いでもない。
SMAPが歌うと嫌味がない。
しかし内向きになることがいいことかと言えば
そうでもなく、現代の場合それがすごい極端だったりする。
僕の父が仕事場の若い奴らが休憩時間にスマホゲームばかりやると怒っていた(笑)
バカッターと言われている人たちも要はそれが過激化したものだ。
今目の前にいる人よりもネットの繋がりのほうが大事になっているのだ。
僕にとって「僕と君」こそが「世界」であるから
「僕と君」以外も他人にとって「世界」である
というのは結構いいこと言った気がする。
まぁ実は僕も引きこもってネットばかりやっているのだが。