ほとんど家にいる

フリーター時々ニートが世の中にある「死ねばいいのに」と思ったことを書きます。

映画「奇跡」と自己愛。

僕の大好きな

是枝監督の作品で唯一見てなかった

「奇跡」という映画をパソコンで見た。

 

なんで見てなかったかって?

いや、見なくても良いに決まってんじゃん。

音楽も僕の好きなくるりだぞ。

 

この映画の主題歌のくるりの「奇跡」も

くるりの曲の中で一番か二番に好きだ。

 

つーか今まで見なかったのは

泣くのが怖かったのかもしれん。

案の定、オンオン泣いた。

 

こんな無収入で実家に半ば引きこもってる奴が

違法にアップロードされたものを見て

オンオン泣いている場合ではない。

 

映画の内容は説明しないが(めんどくさいので)

「このありふれた日常こそ奇跡」って

まぁよく言われることだと思うけど

 

そのまんまなんだよ。

その言葉通り。

それ以上でも以下でもない。

それを噛み締めるんだな。

 

映画はな

結末とか

大どんでん返しとか

そんなもんがすべてじゃねーんだよ馬鹿!(誰に言っているのだ)

 

ちょっとだけ内容を説明すると

主人公役のまえだまえだのお兄ちゃんの

親が離婚してて家族別々に暮らしてる。

 

新幹線がすれ違う時に願いを込めれば奇跡が起きる

という話を信じてて

彼は桜島が噴火してめちゃくちゃになれば

今住んでる鹿児島に住めなくなり

また一緒に住めると思ってる。

それが彼の願う「奇跡」だった。

 

しかし彼は

「家族より世界を取った」と言って

それを願うことをやめる。

 

これがおおまかな内容である。

 

 

この結末はもしかしたら

大人の押し付けかもしれない。

親にどんなに迷惑をかけられようと

要は子供に「今を愛せ」と言っているのだから。

 

いや、しかし

例え押し付けであっても

大人から子供にかけてあげる

言葉はそれしかないのだ。

「ごめんね」という言葉ではなく。

 

それと

「今を愛す」ことが

「大人になる」という事なのだ。

たぶん。

 

前にもブログに書いた通り

歳を取るということは

可能性が減っていくということであり

誰しもが理想の大人になんてなってないのが

世の常である。

 

ということは

人生というものは右往左往しながら

結局、最終的に

「自己愛」しかない。

 

「奇跡」というのは

常に日常と地続きである

ということも言える。

 

僕は

「隕石が落ちてきて世界がめちゃくちゃにならねーかなー」

とか思っているので

大人にもなれていないということだし

はっきり言って

こういう幼稚な考えの奴が人を殺すのだ。

自己愛を持っている人はすすんで人殺しなどしないだろう。

 

でも

自己愛を持つことほど難しいこともない。

生まれつきの怪物みたいな人もいるけど。

(学生の時とかに女の子に告白しまくって噂も広まってるのに

気にしないやつはいい意味でモンスターだと思う。)

 

逆に言うと僕みたいなもんは

自己愛が強すぎるとも言える。

だから否定されることにビビっているのだ。

 

これも前に書いた

「失うものがない人ほど失敗を怖がる」

ってことと一緒で

自分の小さな小さなプライドを守っていて

それさえも否定されたら

もう生きていく自信がないわけで。

 

男女関係で言えば告白して傷つくくらいなら

言わない方がいいという。

 

そう、だから僕はいじめられてもないのに

学校に行くのをやめたのだ。

女にフラれたからではなく

あのまま行ってたら傷つくのがわかった。

そして今も逃避癖が変わっていない。

 

でもそういう言い訳を突破したところで

自己愛を少しずつ獲得するのだと思うよ!

 

というところで

今日は締めたいと思う。