ラップがなぜ流行っているかの話
ラップがなぜ流行ってるのかっていうのは
論理的に推察できる。
似たようなビートで言葉を乗せるからその人固有の身体性がわかりやすいからだ。
ロックは大衆化した。
日本では女子高生がバンドをやるアニメも出るほど一般化した。
バンドを描いた映画も最早パターン化している。
売れない→メンバーと衝突→彼女と別れる→新しい道に進もうぜ!
的な。
故にバンドをやることはいかがわしくなくなった。
若者はいかがわしいものに魅力を感じるのだ。
何故なら大人と違って持ってないから。
持たざる者だから。
つまり白米をうまい、うまいとか言って食べてるのはおじさんなのだ。
若者はインスタ映えする味の濃いカラフルわたあめを食べたいわけである。
シティポップみたいのが流行ってるのも訳がある。
バンドをやる人がいかがわしくなさを売りにしているのだ。
そういう人が割とバンドとして続けているということ。
身体性が求められているのは何も音楽だけではない。
スポーツもそういう時代になった。
戦術やアイデア、情報はネットでスグに共有されるからだ。
音楽ストリーミングサービスのSpotifyやApple Musicには4000万曲あるらしい。
これから出される曲はすべてアーカイブされるし、素人でも金払えば載せられると考えると、1ヶ月でどれだけの曲が増えるのか。
それが大人1000円、学生500円だ。
サニーデイサービスの曽我部さんが
「俺らの曲が『上を向いて歩こう』みたいに歌い継がれるわけないんだから」
と言って出したアルバムの曲数が18曲で前作が25曲。
これはこれからの音楽家としての在り方をひとつ提示している。
そう考えると「ヒット曲」という概念も最早古い。
星野源の「恋」はダンスで身体性を真似させること、RADWIMPSの「前前前世」は映画館に「君の名は」を観に行くという体験を提供したことでヒットしたのだ。
日本のバンドシーンに関して言うとゴールデンボンバーが終わらせた感もある。
バンドは持たざる者たちが唯一の手がかりでやるものとして下手なことが許されていたわけだが、そもそも演奏しないという選択肢を提示してしまったからだ。
演奏が下手なことは魅力として捉えにくくなった。
しかしゴールデンボンバーが売れたも時代の流れとして必然である。
彼らは「王様は裸だ!」とぶっちゃけたに過ぎない。
情報が溢れるとそういう破壊者が現れてリアルを提示して、人々はよりミニマルな世界に移動する。
ご飯に例えれば自分で作らずに、コンビニ飯やファミレスの飯をどう美味しく食べるかということにシフトしていく。